NORの目に映る世界。 NORというフィルターを通すと、こんな風になってしまうんです。 子供の頃は、汚い街だと思ってた。 大人になって、儚い街だと気がついた。 それならいっそ、浮かれて暮らそうじゃないか。 無情な現を嘆きながら。

2012年02月06日

眠れぬ明日は傍にいて。

カチャカチャと無機質な金属音だけが部屋に響いている。
彼と向かい合わせで取る食事。
もう何日目だろう。
私が、朝食はパン派であることを彼は最初から覚えてくれていた。

「美味しい?」
「うん」
「そっかそっか、良かった!ゆっくり食べな?今あったかい紅茶も入れてあげるね。」

私がコーヒーが苦手なことも、ちゃんと覚えている。

「ヒロ…仕事はいいの?」
「大丈夫だよ。ちゃんと調整してあるから」
「でも…」
「リオ?余計なことは考えなくていいんだよ。リオは俺の傍にいてくれるだけでいいの」

首筋に触れるひやりと冷たい感覚。
気温のせいだろうか、人間の体温とはかけ離れていた。

「リオが寝てる間にちょっと買い物してきたんだ。リオに似合うと思って」

首筋に新たな感触が加わった。
それは細く、やはり冷たい。
耳の後ろ辺りでパチンと何かが弾けるような音がした。
僅かな重みが鎖骨にかかる。

「やっぱり!思ったとおりだ。リオは綺麗だから何でも似合うね。これがあれば俺も安心なんだ。いつも繋がっていられる気がする」

細く頼りないながらもしっかりと主張する首筋の冷えた感触は、私を甘美な恐怖へと陥れた。
金属の擦れる音。
私を現実へと引き戻してくれるのは、その微かな不協和音だけだった。

「これで俺も安心して仕事に行けるよ」
「ヒロ…」
「大丈夫、ちゃんと帰ってくるからね?独りになんて絶対しないから。ご飯もちゃんと作ってあげるし、帰ってきたらお風呂も一緒に入ろう。何も心配しなくていいからね。仕事の間だけ、ちょっと寂しいかもしれないけど、でもすぐ帰ってくるよ」

彼の大きな手が頬に触れる。
今度は温かかった。
先程首筋に触れた感覚とは大きく異なる、人の温かさ。
皮膚を通る神経は研ぎ澄まされ、血液の流れる音さえ聞こえてきそうな気がした。

「愛してるよ、リオ…」

耳元で彼が囁き、手を握る。
耳に触れ、髪に触れ、一つ一つを確かめるように彼の手が私の身体を這い回る。

「綺麗だよ、リオ。すごく綺麗。誰にも渡さないよ。もう帰さない…」

後方で、ガチャリと重く鈍い音が響いた。

「これで大丈夫。ずっと一緒だよ。ずっと…」

体重を少しだけ前方向に落としてみた。
首の付け根に食い込むそれは、ネックレスなどよりはずっと強く太い。
私の首を優しく締め上げるものは、私の体温と同じほどに温まっている。
私はこれを知っている。
この感触を知っている。
人間の一生のうち、おおよそをこれで認識しているであろう視覚を奪われた今、触覚、嗅覚、聴覚は急激に発達していく。
特に聴覚は相手の移動範囲を探るためにより一層敏感になっていった。
そしてそれらによりわかったものは、私は彼の手で繋がれてしまったこと。
首にかかっているものは、恐らく鎖であろうこと。
その鎖を彼は、部屋のどこかに重く冷たい錠で固定した。

「これでリオは本当に俺のものになったよ。どこにも逃げられない。でもあんまり動いちゃダメだよ?危ないからね。綺麗な身体に傷でも付いたら大変だ」

身体の前で組まれていた手は後ろに回され、手首に鉄が食い込んでくるのを感じた。
動かす度にギリギリと手首を締め上げた。

「動かないで!ホントに危ないんだから!」

彼が私を抱き締めた。
私には、動くことも見ることも許されてはいない。
ただ感じることだけが、生きている証なのだと悟った。

「リオ、いい子だね。ちゃんと言うこと聞いて、守ってくれる。優しい子…」

まるで子供をあやすような口振りで、頭を撫でた。
こんなとき、彼がどんな顔をするか、私は知っている。
最初からこうだったわけじゃない。
ある日突然、彼は私の眼を隠し、手足の自由を奪った。
しきりに彼は呟いていた。
吸い込まれてしまう、溺れてしまう。
きっと涙を流しながら、彼は呟いていた。

「俺はね、リオの綺麗な瞳が好きなんだ。大きくて、黒くて、何もかもを見透かしていそうなその目が俺を壊した」
「ヒロ…逃げたりなんてしないから、全部外して…」
「ダメだよ、それは出来ないんだ。ごめんね。こうして繋いでおかないと、隠しておかないと…リオは誰かに連れ去られてしまうよ。だって外は危険がいっぱいなんだよ。こんな美しいものを放っておくわけにはいかない」

首に繋がった鎖を指で弾いているようだ。
その振動が皮膚を伝わり、チャリチャリと音を鳴らした。
私は彼に繋がっている。
この鎖は、彼の心に繋がっているんだと思った。

「ヒロ…お願いだから…」
「ダメだ!そんなことは許さない!リオ…お願いだ。言うこと聞いて…」

きっと彼は泣いている。
私を想って泣いているに違いない。
今更逃げる気など毛頭なかった。
忠実に、彼の元で生きていくことを誓っていた。
私も、狂っていた。
不意に彼の吐息を耳元で感じた。
いつもそうだ。
そっと、気配無く近づいて、私の意識を奪っていく。

「リオ、信じてるよ。リオはいい子だもんね。ずっと俺のものでいてくれるね?いい子にしてるんだよ。いいね?」

私は小さく頷いた。
髪を撫で、頬に触れ、キスをする。
彼の指がゆっくり耳にかかり、目隠しはとうとう外され、長かった暗闇は光に溶けた。
部屋は意外に薄暗く、随分と光から遮断されていた眼球にも刺激は少なく済んだ。

「やっぱり綺麗だ…。この目が俺を惑わすんだ」

まだぼやける視界の真ん中で、彼の姿を捉えた。
出逢った頃と変わらない、優しい顔をしている。

「リオ、愛してるよ。俺たちはこれで、ずっと一緒だ。誰にも邪魔させない。わかってくれ、リオ。こうでもしなきゃ、俺たちに明日はない…」





それからどのくらい月日が流れたかはわからない。
相変わらず私は鎖に繋がれ、彼の帰りを待っている。
手首に食い込む錠は、毎日彼の手によって磨かれ、まるで鏡のように私の背中を映し出していた。
甘美な恐怖…それは私達に見えぬ明日を約束してくれる。
この鎖は、見えぬ明日までをも、繋ぎ止めてくれているのだ。







  


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